★裏方に訊く 2010年3月
ゲスト
「けん玉師・伊藤佑介」


【全3回 其の1

 バンクーバー冬季オリンピックもどうやら無事に終わりました。
 今回のオリンピックで話題になったのが芸術点というやつでしょう。基準の明確でない芸術点が勝利のためには非常に重要な要素であるらしいのです。フィギアスケートも競技ですから勝敗を決めなくてはならない。でもパフォーマンスでもあるから回転数やジャンプだけの勝負にも出来ない。結果として勝っても負けてもすっきりしないのが芸術点なのでしょう。
 芸術に正しい答えはないとされています。となれば芸術に点をつけるのは好き嫌いでしかなく、それを胸を張って提示するためにはとにかく数多くの芸術に触れるしかないと思うのです。
 採点している方々は日常的に芸術に触れているのでしょうか。また今回の結果に異を唱える日本人も芸術に十分触れているでしょうか。
 世の中には藝が沢山あるのです。それらに触れずして芸術点とはなんぞやと語り得ましょうか?
 藝能とは何かを考える上でも問題提起をしたオリンピックではありました。
 さて、今回ご登場頂くのは日本人にはお馴染みのけん玉をパフォーマンスに昇華した、けん玉師・伊藤佑介さんです。

けん玉師 伊藤佑介

※上の動画が見れない方はこちらでご覧下さい

伊藤佑介
7歳でけん玉を始める。通産10度のけん玉全日本大会優勝、ギネス記録も樹立する。
大学卒業後、世界初のプロけん玉師として始動。2005年にはパフォーマンスの全国的な大会である芸王グランプリで優勝に輝いた。

 
伊藤佑介
けん玉師 伊藤佑介 公式ホームページ http://www.kendamashi.com/


●伊藤佑介、けん玉師になるまで

 肩書きはけん玉師となっていますが、これは昔からある職業なのですか?

伊藤「こういう活動をしているのが私の前に居なかったもので、私が付けた名称ではあるんですけれども」

 けん玉師は造語?

伊藤「そうですね。ジャグリングの道具としてけん玉を使われていた方は居ましたけど、けん玉だけでショーやパフォーマンスを行いそれを職業にするのは、私が初めてだと思います」

 聞かれ飽きている質問かと思いますが、けん玉と選んだ理由とは?

伊藤「小学校2年生の時に、私の兄がけん玉で遊んでたんですけれど、小さい頃だったもので兄だけ買ってもらっているのが羨ましくて、私の分も買って貰ったのがきっかけで始めました」

 親としても軽い気持ちで買ってあげたに違いない。でもこれが人生を決めてしまった。

伊藤「最初は兄と家で遊んでいるだけだったんですけれど、小学校に持っていくと回りの友達が始めて、クラスで始まって、級の規定が出来てどんどん広まっていって……」

 7歳にしてすでにけん玉布教の第一歩を踏み出した伊藤さん。

伊藤「その後に日野けん玉道場というのが始まりまして、兄と入ったのが本格的に勉強するきかっけでしたね」

 どんどんのめり込んでいく伊藤少年。

伊藤「ハマッたのはけん玉大会に出場した辺りからなんですよね。優勝すると大きなけん玉が貰えるんで、それがどうしても欲しくて。家に飾りたかったんですよ」

 第3回文部大臣杯で見事優勝。大きなけん玉の写真を見せていただきましたが70cm位ある。

伊藤「ただ、そのけん玉が持ち回りなんですよ。貰える訳じゃなかったんです(笑)。1サイズ小さいけん玉は頂けたんで目標は達せられたんですけど」

 大会は現在も継続中なんですか?

伊藤「文部大臣杯が文部科学大臣杯に変わってはいますけれど。私なんかはこれが、けん玉界の甲子園だと思って、優勝するために小学生の頃はずっと練習してました」

けん玉師・伊藤佑介

 そして巨大けん玉も優勝旗の様に持ち回りを続けているのでしょう。ちなみに大会の正式名称は<文部科学大臣杯>全日本少年少女けん玉道選手権大会だそうです。
 けん玉のパフォーマンスを仕事にしようと思ったのはいつ頃なんでしょう?

伊藤「小学校の卒業アルバムに「土日休みの会社に入ってけん玉続けたい。けん玉だけでは食っていけないと思うので」って書いたんですよ(笑)」

 現実的な子供ですね。

伊藤「そのつもりで小、中、高、大学と行ったんですけれど、土日休みって言っても抽象的過ぎるじゃないですか」

 志望動機には書き辛いですよね。

伊藤「高校時代にはけん玉大会にジャージで出たいたんですよ。なのでアディダス、アシックス、ナイキとかの一流のメーカーに入って、私がジャージを着て」

スポーツ選手のスポンサー制度をけん玉でやろうとした訳ですね。

伊藤「そういうのが一番良いのかなと思った時期もありましたね」

 それでもまだけん玉で生活できるとは思っていなかった。

伊藤2000年に大学3年生だったんですけれど、日露青少年交流キャラバンという、外務省主催の日本の文化をロシアに伝えるっていう団がありまして、2週間だけ能、津軽三味線、けん玉で行ったんですよね」

 誰が選んだんですか、その組み合わせ。

伊藤「外務省の方が、これならいけるんじゃないかって思ったらしいんですけれど」

 興行を仕事にしている人ではむしろ組めないメンバーですね。外務省、良い仕事をした。

けん玉師・伊藤佑介

アメリカのフェスティバルでのショー

伊藤「その時に津軽三味線の方は、それで生活している話を聞かされて衝撃で。藝事で生活できないと思ってたんですよね。じゃあどうしてそういう活動が出来るのかな、と思った時に自分なりの答えとして、人に感動であったり喜びであったり、そういうエネルギーを与える事が出来れば、たとえけん玉であってもプロとして活動が出来るんじゃないかなって考えられるようになったのが、津軽三味線の方との出会いでしたね」

 その時出会ったのが廣原武美(ひろはらたけみ)氏。二人は現在、和音和技(わおんわぎ)というユニットを組んで活動している。

伊藤そこでちょっとだけ意識が変わりましたね。そこでもまだ踏ん切りは付かなかったですけど。そういう道もあるんじゃないかと、薄々感じたのがその頃でしたね」

 それでも卒業は迫ってくる。

伊藤「最終的には友達の影響も受けて公務員試験を受ける事にしたんですけれど、丁度私の代に地元の採用試験が無かったんですよ。色々考えた結果、広島県の廿日市市(はつかいちし)役所を受ける事にしまして」

 随分遠くに。

伊藤「そこが木材活動が盛んで、その一環でけん玉を生産している場所だったんですね。そういう所で仕事できれば、いつかけん玉とリンクした仕事ができるんじゃないか、みたいな」

 ある意味、これ程真剣に進路を考えて就職活動している大学生は滅多に居ないとも言える。

伊藤「前日に大阪でけん玉大会に出場して夜行バスに乗って採用試験会場に向かったんですよね」

 結果は?

伊藤「筆記試験で落ちてしまって。残り半年で卒業なんですけど、どんな職業で考えても、この職業だったら、どうけん玉が出来るかしか考えられなかったんですよ。

 私にはオススメ出来る仕事か思いつかない。

伊藤「それ位だったらバイトしながらでも、けん玉メインでやってた方が幸せだろうなって思ったんです」

 でも最後の一歩を踏み出すのは勇気が要る。

伊藤「私の母は専業主婦だったんですけど、50歳から沖縄県の与那国島で塩の会社を始めたんですよ。一年位赤字が続いてもう駄目だって時に、にがりブームが来たんですよ」

 与那国海塩有限会社という会社です。

伊藤「その母に卒業旅行を兼ねて会いに行ったんですよ。東京では普通の母さんだったのが沖縄では凄い輝いていて、これは自分のやりたい事をやらないと人生輝かないなって」

 本当にやりたい事を見つけた人の強さですね。

伊藤「けん玉師をやりたいと何となくは思っていても、それまで口には出せなかったんです。母に初めてその事を告げたら『佑介はいつかそう言うんじゃないかと思ってた。母さんとしては嬉しい』みたいな感じで言ってくれたんで、両親が応援してくれるならやっていけるかなと思って」

 こうしてけん玉師・伊藤佑介が誕生した。
 現在、テレビ等で活躍している方々は他のタレントには無い特技・特徴を獲得するのに血眼になっている。多趣味や多芸が分かり易い特徴として評価される。
それに対して伊藤さんはけん玉純正培養と言っても良い。正直私はお話をうかがうまで、ここまでのけん玉一直線だとは思っておりませんでした。
こういう人に藝の女神は微笑むのだとしみじみ感じ入った次第。
けん玉に引かれるようにして進んできた伊藤さん。では実際の活動はどんな事をされているのか。その辺りを次回は聞いて参ります。

けん玉師・伊藤佑介

企業イベント内でのショー

プロモーションムービー、公演写真 提供・伊藤佑介
インタビュー撮影・スズキマサミ