★裏方に訊く 2010年4月
ゲスト
「能楽師・佐久間二郎」


【全3回 其の1

 花粉症の季節がやって参りました。皆様いかがお過ごしでしょうか?
 岩手に居ります友人に聞いたら、岩手の方が花粉の量は多いはずなのに、症状は東京に居る時の方が重いといっておりました。都会暮らしというのは、なにか色々無理してるような気がしますね。利便性を捨てて昔の生活をすればアレルギーの類は随分楽になる物のあるとか言いますが、それも中々出来ない事ですし。さてさて、どうすべきでありましょうか。何らかの方法で原点回帰をすべきなのかもしれません。
 という訳で、原点を探るという意味も込めつつ、今回は日本の藝能の中でも極めてプリミティブな魅力を放つ能楽の世界で活躍する能楽師の佐久間二郎さんにお話を伺います。

能楽師・佐久間二郎

佐久間二郎
昭和47年12月 山梨県甲府市に生まれる。
高校在学中、観世流・中森晶三(なかもりしょうぞう)に師事。高校卒業後、観世喜之(かんぜよしゆき)の元に内弟子入門。
平成10年、観世宗家より観世流能楽師としての認定を正式に受ける
地元・山梨において能楽の普及に努める。
山梨県立大学非常勤講師。
社団法人「観世九皐会(かんぜきゅうこうかい)」に所属。能楽協会会員。謡曲・仕舞「観世流富士の会」主催。

佐久間二郎HP「花のみちしるべ」
 http://www5e.biglobe.ne.jp/~hanamiti/

 

●能にハマる少年

 能楽の存在を知っている人は多い。では実際に能を観たことがある人は?となるとその数はグッと減るのは間違いない。
 そもそも観るきっかけが無かったというパターンもあるでしょう。

 本題に入る前に能楽について簡単に解説しましょう。能楽のルーツは平安時代辺りから流行した猿楽(さるがく)という藝能。この猿楽が観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)の親子を中心に発達し、現代の能楽になっていった。
日本の舞台藝のなかでも極めて長い伝統を持つのが能楽。東南アジアを中心に多く存在する仮面劇の中でも最も洗練された形式を持っているといって過言ではない。
能の演目を歌舞伎にアレンジした作品を松羽目物(まつばめもの)と呼び、ひとつの独立ジャンルとして数える。また能楽作品にインスパイアされて三島由紀夫が『近代能楽集』を著している。後の藝能文化に与える影響は今なお強い。
 都内にいくつかある能楽堂なら毎週のように公演が催され、稽古事としても人気がある。
 
さて、佐久間さんの能楽との出会いは?

佐久間「3歳の時に母親がうなぎ屋に勤めてたんですね。そこに般若(はんにゃ)の面が飾ってあったんですよ。子供心に見て惹かれるモノがあったんですよね」

能楽師・佐久間二郎

左・女面  右・般若面

 この般若、格好良いと。

佐久間「そうですね」

 怖いとは思わなかった?

佐久間「それよく聞かれるんですけれど、一度も思わなかったですね。般若の面って泣いてるじゃないですか。なぜ鬼なのに泣いてるのかなっていうのが始まりだったんですね。それで、小学校1年生の時に面打ち師(めんうちし)になりたいと思ったんですね。ただ手先が不器用っていう事と、彫刻等がおっかなくって持てなくて(笑)」

 佐久間少年、早くも人生の挫折を知る。

佐久間「能面って飾る物だと思ってたんですね。そうしたら、ある日にNHKで能をやってたんです。母親が『般若が踊ってるから観てごらん』って言って、駆けつけて見たんです。(般若を)人間が付けて、舞っているのが凄く面白くて。それから毎週テレビで能を観ていて、その内、囃子の音色が好きになったんです。鼓がポンポンいうのが良いなと思って」

 今度は鼓打ちになろうとした。

佐久間「出身の山梨には先生が見付からなくて」

 こちらも断念。

佐久間「そうしたら3年生くらいの時にシテ方(してかた)、いわゆる主役ですよね、これが一番良いなと思って、それ以来ですよね」

 小学校3年生の時に何になりたかったか、私は全く覚えていない。

佐久間「一番初めに親に買って貰った本が能面の本だったんです。中耳炎で手術めいた事をする時に、『今日泣かなくて我慢したら能面の本買ってあげるよ』って言われて、我慢して(笑)」

 中耳炎の経験は私にもある。あれ、子供が我慢できる痛みじゃないのだ。

 

●弟子入り志願の日々

佐久間「私があんまり能を見てるから、父親が奮発してビデオデッキを買ってくれたんですよ。20数万するやつを。それで一番最初に録った能が観世流の『鵜飼』で、その時の舞台があまりにも衝撃的で、大げさじゃなく1万回以上毎日のように見てたんです」

 親御さんは心配したんじゃないですか?

佐久間「能楽師になるって言っていて、最初は『良かったね、頑張んなさい』だったのが、いつまでもそんな事言ってるもんだから、その内一族郎党あげて反対にかかったんです(笑)」

 反対運動はいつ頃から?

佐久間「6年生位からですね。なんでかって言うと中学にも行かないって言い出したんです」

 息子が義務教育を放棄しようとすれば止めるのが親の情でアリマス。

佐久間「折りしも5年生の時に国立能楽堂が千駄ヶ谷に出来たんですよね。母親が本物を見ればプロとの差を感じて諦めるだろうっていう事で、学校サボって観に行ったんですよね。そしたら逆に火が点いて、もう完全にハマっちゃって」

能楽師・佐久間二郎

演目「小鍛冶(こかじ)」

 逆効果だったと。

佐久間「新聞に公演の情報が入っていて、止せばいいのに、親がまた『観に行ってきなさい』って言われて、その時観たのが、私の初めの師匠である中森昌三だったんです。実はその中森も、もとは能楽師の家系じゃなかったんですよ」

 歌舞伎もそうだが、能楽界でも家柄は大きな意味を持つ場合が少なくない。プロフィールの通り、佐久間さんも能楽師の家系ではない。

佐久間「中森は凄まじく頭のいい人で、能の未来に危機感を感じていて、解説を付けた能の定期公演を編み出した人なんですよ。私が初めて観に行った中森の公演がそれで、分かり易くて、子供心にも凄いなって感じたんですよね」

 それから佐久間さんの甲府と千駄ヶ谷を股にかけた能楽堂通いが始まる。佐久間さん中学生の頃である。

佐久間「国立能楽堂が自由席だったものですから、良い席に座りたくて開場の2時間位前から能楽堂の玄関の前で待ってたんですよ。そしたら受付のおばさまが『よく来るけど、お父さんとお母さんどこに行っちゃたの?』って(笑)。どうしても中森先生の弟子になりたくて一人で来てるんですって言ったら驚いちゃって」

 弟子入り志望の中学生に驚いちゃった受付のおばさまの仲介もあり、佐久間さんは後日、鎌倉の中森師の家を訪ねる事になる。

佐久間「高校に行く気も無くて、一日も早く能楽師になりたいって思いの丈を伝えたんです。で、どうか弟子にして下さいって言ったら『駄目!』って。この世界は素人上がりでモノになるかどうか凄く危ないから、高校受験をして受かったらもう一度、鎌倉に来なさいっていう事だったんですね。それから猛勉強したんですよ」

 中学生で能楽師になりたいという子は佐久間さんの前後で他にいたんですか?

佐久間「多分いないと思います。それで高校に受かって、鎌倉に行ったら中森が驚いて、本物だなって事で稽古を付けてくれたんですよね」

 師匠は説得した。残るは反対運動中の両親。

佐久間「中森の稽古が土曜の夕方しか空いてなかったんですよ。公立高校だと昼まで授業だったので間に合わないんです。私学だと早く(稽古に)行けるんです。母親は公立高校に行かせたかったんですけど、勝手に受験の手続きもしちゃって私学に決めちゃったんですよ。それが三者面談の時にバレて、母親が1週間口利いてくれなくて(笑)」

 ようやく高校に行くと思って安心したら、ソレですもんね。

佐久間「どうしても中森先生の所に行きたいからって言ったら親もようやく折れて。月謝はバイトしながら自分で払うって言ったら逆に怒られて、『稽古するなら専念しなさい』って全部面倒見てくれて。それから3年間、高校終わったら学生服のまま片道3時間掛けて鎌倉に行って、という感じですね」

能楽師・佐久間二郎

能の稽古には8歳の少年も参加している。

 中森先生の稽古とはどんな内容だったんでしょう?

佐久間「中森は内弟子が取れなかったんですよ。で、現在の大師匠である観世喜之師を紹介して頂き『高校卒業して大学行く気がないなら喜之先生の所に内弟子(うちでし)として入りなさい』って言われて。だから高校の3年間で内弟子になれるだけの素養を身につけるっていう事で。ですから促成栽培でした」

 内弟子というのは師匠の家に住み込みをする、昔ながらの修行方法。住み込みをせずに修業するのを通い弟子という。

佐久間「内弟子に入ってからですね、大変だったのは。最初の1年で100回位辞めようと思いました」

 なにしろ周りは代々「能楽師」の家を継ぐものばかりなのだ、そこに促成栽培が入ってくる。どうしたってハンデを背負う事になる。
 けれども外から来たという事はやがて大きな武器になってゆく。次回は現代の能楽界について、その中で佐久間さんが何を思っているかを伺ってゆきたいと思います。

 


 

 

 

《佐久間二郎・公演情報》

武田神社ご鎮座90周年記念
「第6回 武田の杜薪能」
5月15日(土)16:30開演
武田神社能楽殿(山梨県甲府市)

【出演】
 観世喜之
 観世喜正
 野村萬斎
 佐久間二郎  

【演目】
 能「翁」
 狂言「昆布売」
 能「菊慈童」

詳しくは
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hanamiti/


公演写真 提供・佐久間二郎
撮影・スズキマサミ
撮影協力・矢来能楽堂