★藝能往來 公演フォトレポート 2011年11月
「第七回 武田の杜 薪能

武田の杜 薪能

以前のゲストで出て頂いた能楽師の佐久間二郎さんが、毎年5月に故郷の山梨県甲府市の武田神社で開催している「武田の杜薪能(たけだのもりたきぎのう)」。
その公演チラシの撮影と、公演の模様をカメラマンのスズキマサミがフォトレポートでお送り致します。

※各画像をクリックすると別ウインドウで大きな画像がご覧になれます。

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● チラシ用撮影 2010年12月

今回の公演は和蝋燭の灯りで演じる薪能で、そのイメージを絵にしたいという注文。デザイナーさんはずっと「武田の杜薪能」のチラシを手掛けてられる地元の方。使い易い素材としての画像データを渡すのが使命である。

観音面と般若面、二種類の装束で撮ったのだが、この着付けが大変。二人掛かりで着付ける。着るというより装着するという感じ。こんなに重い着物を幾重にも纏って、あんなに優美に舞えるとは。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

その装束をまとい、面(おもて)を着け、カメラの前に立ち、私が「はい撮ります」と一声掛けると、面と装束と人間がふっと一つになる。「はいちょっと確認します」と声をかけカメラを外すと、面と装束と人間が幽体離脱のようにバラバラになる。それぞれがそれぞれをコントロールし合うような感じが驚異的だった。

撮影場所は佐久間さんの兄弟子の方の稽古場を使わせて頂いた。
蝋燭の代わりにクリップライトに10ワットの暗い白熱球を付けて、アルミホイルで光の広がり方を調節して下から照らす。
それで部屋の明かりを消し、さも蝋燭の灯りで照らされた様な雰囲気を作る。絞りを開いてボケ足をめいいっぱい付け、闇の中に浮かび上がる感じを更に演出。
撮影場所の下見も出来なかったので、もう行き当たりばったり、成り行き任せだったのだが、この灯り作りは事の他上手く行った。

装束や道具を変えながら数パターン撮影。
暗闇に浮かぶ面の表情や存在感から、人間と対峙しているときには絶対味わえないような気を感じる。炎の前に立っているときの足がすくむような怖さにも似た、とても不思議な感覚、というか緊張感。圧倒された。
面は人間の顔よりやや小さめに作られている。それは顔を覆うような普通のお面のサイズにしてしまうと、魂を吸い取られるからだそうだ。その事が何だか凄くわかる気がした。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

画像は暗闇に蝋燭で浮かぶような雰囲気を出すため闇の部分を深く加工し仕上げる。

▼ 地元のデザイナーさんが仕上げて下さったチラシはこちら。

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● 公演撮影 2011年5月14日

チラシの撮影から半年弱。その間に震災もあり、あっという間でもあり長かったような時間が過ぎた。
新緑に包まれた甲府市の武田神社。以前観光で訪れたのは2004年の冬だったが、その時にはこんな立派な能楽堂はまだなかった。しかし予想していたより広い会場……400ミリの望遠レンズで足りるだろうか……。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

▼ 神社の入り口にはポスターが。カッコ良く仕上げて頂き嬉しい限り。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

▼ 公演前に演者は御祓いを受ける。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

撮影は撮影用のやぐらの上。テレビカメラ1台にスチールカメラマン3人。狭いが致し方なし。それより高所恐怖症の身にとってはその高さの方が辛い……。

多くの能の公演は、演じられる前に物語の解説をされる。
正直こういった解説を聞いたりパンフレットの解説を読まないと筋がわからない演目は多い。
最初にこの演じる前の解説を公演に盛り込んだのは、佐久間さんの師匠の中森昌三さんだそうだ。

挨拶と火入れ式に続き舞囃子の「小袖曽我(こそでそが)」から上演。そして狂言「素襖落(すおうおとし)」。休憩を挟みいよいよ能「葵上(あおいのうえ)」。

 

▼ 佐久間さんによる挨拶と演目の解説から公演は始まる。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

[今回の演目「葵上」の簡単な粗筋]
光源の妻・葵上は謎の大病を患う。仕える大臣は葵上救うべくイタコを呼び憑いた霊を呼び出す。その霊は光源の寵愛を受けながらも正妻・葵上の存在に勝てず、怨みが募り生霊となった六条御息所だった。
葵上を闇の世界へ連れ込もうとする生霊に、今度は行者・横川の小聖が挑む。
一進一退の闘いが繰り広げられ、行者の法力によって生霊は変わり果てた己の姿に気づいて恥じ、成仏を遂げる。

 

▼ 宵闇に舞台が浮かび上がる。蝋燭と篝火の炎のゆらぎも美しい。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

まず舞台に大臣が登場し、葵上の病のこと、医療や呪術が効かない謎の病だと言うことを、【名乗り(なのり)】と呼ばれる自己紹介の台詞の中で述べる。
葵上は舞台上手前に置かれた着物で見立てている。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

巫女の祈祷によって六条御息所の生霊が現れる。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

生霊は狂気に満ちた嫉妬と執念を病に苦しむ葵上へ打ち据える。その狂気を流麗な謡と激しい所作で表現。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

大臣は病状の悪化に驚き、行者を呼び寄せる。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

行者が悪霊退散の祈りを始めると、怒りの為に六条御息所の生霊は鬼と化す。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

襲いかかる怨念の鬼と行者との一進一退の闘い。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

闘いの果て、生霊は変わり果てた己の姿に気づいて恥じ、成仏を遂げる。

武田の杜 薪能 佐久間二郎

武田の杜 薪能 佐久間二郎

 

この演目の特徴は、病に伏せっている葵上を舞台の上に置かれた着物一枚で表現していることだろう。夫である光源も登場しない。
大臣は着物を観ながら葵上の身を案じ、生霊は着物に向けて悲しみや怨みをぶつけるのだ。
さすがにこれは初めて観るときに解説なくしてはわからない。

始めに佐久間さんの解説によりその旨が説明されているのもあるが、観ている内にその着物が着物という物体ではなく感じてくる。たとてそれが物であろうと、舞台の上では人なのだ。
今回撮影という行為を行いながらの観劇で、一観客として舞台を観るのとは、ちょっと違う視点でも能という舞台を見つめていた。そこでことさら感じたのが演じられる人間の生々しさだった。
面を着け、着物に向かって感情をぶつける、おおよそ生々しさなど感じ得ないシチュエーションなのだが、生身の役者が舞台で演じるより、もっと生々しく感じられた。
私のように能の観劇歴が浅い人間が言うのも何だが、この生々しさこそが能が人を魅了してしまう肝なのかもしれない。私にとっての能の醍醐味はそこなんだと改めて気づいた。
そして今回は野外での薪能。能が映し出す人間の生々しさを包むような、風と闇と炎と木々のざわめきの演出が、なんとも言えない世界で迫って来た。

撮影するという部分で言うと、やはり面による表情の変化は生身の顔の表情より繊細で捉えるのは難しい。面が発する感情に撮る側の気持ちが動かされていないと、面は面としか写らない。人間を撮っていてもそれは同じなのだが、面の場合は物として写ってしまう。それでは演者を、舞台を撮っている意味がない。
今回初めての公演撮影。これだけ写真をお見せしていて言うのも何だが、未熟極まりない感じがしてしまう。誤解を招く言い方かも知れないが、能は高尚な藝能ではなく、人間の暗澹とした救いがたい欲望を描いたものだと思う。キレイ、美しい、カッコイイ、しかしその奥にある怖さに気づくと、能はもっと身近な藝能になる気がする。そのために伝える側としてその怖さを写さなければならないと思うのだ。まだまだ修業が足りません。精進致します。

「武田の杜薪能」は毎年5月に開催されております。新緑の良い季節、甲府観光も兼ねて是非お出かけ下さい。

今回ご協力を頂きました、武田の杜薪能実行委員会様、そして佐久間二郎様、まことにありがとうございました。

佐久間二朗さんのインタビューは こちら からご覧下さい。